バレーボール女子日本代表の「火の鳥NIPPON」は5年ぶりに代表監督に復帰した眞鍋政義監督指揮のもと、パリ五輪プレ大会で優勝を飾り、世界選手権に向けて最高の弾みをつけました。
今回は眞鍋政義監督(59歳)の選手時代の実績についてご紹介致します!
眞鍋政義の若い頃の実績が凄い!
2005年に現役引退をして、監督として手腕を振るっている眞鍋政義監督ですが、選手時代の実績が気になるところですよね!
早速ご紹介致します。
眞鍋政義監督は進学した大阪商業大学附属高校でレギュラー選手として活躍し、インターハイにて優勝。
大阪商業大学時代には、神戸ユニバーシアードに出場し、日本代表に初選出され、1985年のワールドカップに出場しました。
そして1986年、眞鍋政義監督は新日本製鐵に入社すると、1年目からレギュラーセッターとして活躍し新人王を獲得するなど、その後の新日鐵黄金時代を築きました。
1991年には主将を務め、1993年から1999年までは監督として指揮を執っていました。
このように卒業後、新日本製鐵のチーム「新日鐵ブレイザーズ(現:堺ブレイザーズ)」に所属し、選手や監督として活躍していた眞鍋政義監督ですが、その後選手に復帰し、何度も移籍をしています。
- 1986年~1998年:新日鐵ブレイザーズ(現:堺ブレイザーズ)
- 1999年:イベコ パレルモ(イタリア・セリエA)
- 2000年~2001年:旭化成スパーキッズ
- 2002年~2003年:松下電器パナソニックパンサーズ
- 2004年~2005年:旭化成スパーキッズ
上記のチームに所属し、国内のVリーグなどで大活躍を収め、次のような受賞歴を持っています。
- 日本リーグ・Vリーグ ベスト6:12回
- 黒鷲旗 最優秀選手:1回
- 黒鷲旗 ベスト6:6回
そして、世界での活躍もすさまじいです!
なんと眞鍋政義監督は大学在籍時代の1985年から2003年まで日本代表に選出れていたんです!
国債大会出場歴は次の通りです。
- オリンピック(1988年)
- 世界選手権(1986年、1990年、1998年)
- ワールドカップ(1985年、1989年、1995年)
眞鍋政義の現役時代のポジションはセッター?
眞鍋政義監督は兵庫県姫路市に生まれ、子どもの頃から長嶋茂雄さんに憧れる野球少年だったそうです!
白鷺中学校に入学して野球部に入ろうとすると、バレー顧問に勧められたことがきっかけで、バレーボール部に入部しました。
中学時代のポジションはエースアタッカーです!
才能を開花させ、中学時代から大活躍だったようです。
そして、大阪商大附属高校に進学すると、ポジションはセッターに転向!
その後の選手人生のポジションもずっとセッターでした。
まとめ
今回は眞鍋政義監督の選手時代の実績についてご紹介致しましたが、いかがでしたでしょうか。
世界選手権で、眞鍋政義監督がどのような戦術でチームを率いるのか、楽しみですね!